全米日系米国人記念碑(その1)…2007年秋〜冬
2010-07-16


山崎豊子著
『二つの祖国(第一巻)』
2009 年、新潮文庫

 馬小屋の生活であったから、ゆっくり話せる場所といえば、そんなところしかなかった。賢治と林はスタンドへ行き、鉄骨の大きな屋根に出ている陰に坐った。
 かつてレースの度に何万という観客を〓み込み、サラブレッドの華やかなレースを展開してきた米国屈指のサンタ・アニタ競馬場の馬場には、一万余の日系人が詰め込まれ、さらにその周囲の空地には、新たに日系人を収容するためのバラックが、どんどん建てられている。



 ワシントンDC。滞在中に荷物が増えたため、バッグを買いにユニオンステーションへ。そこからは連邦議会までは歩いていける。議事堂の近くに、日系人の記念碑があった。第二次大戦中、日系アメリカ人は敵性国民として、全米各地の収容所に入れられた。この記念碑は、そうした行為を謝罪するとともに、賠償を行うことを印すためにつくられた。

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 1983年にこうした集約がなされた。このことが話題になっていた1983年にも訪米したが、日本人や日系人の中からは賠償を受けることに反対する声も聞こえてきた。最終的には、1988年にレーガン大統領が関連法に署名して、アメリカ政府が謝罪し、賠償金が支払われることになった。

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